あるホワイトデーの風景 <駅前通りから電車で> 指定された場所は、駅前通りから電車に乗らないと行けないところだった。 平日の昼間なのに、電車内は思ったよりも混んでいて。 けれど、駅に到着するたびに人はだんだん減って、終点に近くなると、一車両に数人しか乗っていなかった。 目的地である終点に到着したのは、乗車してから3時間半後のこと。 すでに太陽の光は橙色になりかけている。 ちょっとした小旅行、という気分だろうか。 改札を出ると、そこは見たこともない景色が広がっていた。 海沿いだからか、微かに潮の香りがする。 車のクラクションに驚いてその方向を見ると、そこには私を呼び出した張本人である金澤絋人先生が、車の中から私を手招いていた。 車に近づき、ウィンドウを下げた先生の側に立つ。 先生、車持ってましたっけ? 「いや、これはレンタカー」 そうですよね。 持ってたら通勤に使いますし、学校帰りにお酒飲みに行かないですもんね。 「は相変わらず厳しいなぁ…。ま、とりあえず乗れや」 言われるがままに助手席に乗る。 シートベルトをしながら行き先を尋ねると、にやにやしてふふんと鼻唄を歌うだけで答えてくれない。 何か、いたずらっ子が、しかけたイタズラに掛かるのを楽しみにしてるみたいだぞ? そういうと、うれしそうにまた鼻歌を歌い始めて。 もう、何を言ってもまともな返答はないな、とため息をついて、呆れ顔で先生の横顔を見た。 緩くウェーブのかかった髪は風に揺れて、夕陽に照らされキラキラと輝いていた。 窓を少し開けているからか、時折、柑橘系のコロンが鼻をくすぐる。 タバコではない、先生の香り。 ベージュのジャケットの袖は運転の邪魔にならないようにふたつくらい折ってあり、 黒いブイネックのインナーの首には、黒い紐に小粒のターコイズが付けられたアクセサリ。 ジーパンも靴も黒で統一されている。 ……そういえば、白衣以外の姿を見るのは初めてかもしれない。 こうしてみると、先生、年齢よりも遥かに若く見える。 そして、やっぱり……かっこいい。 黙ってそんなことを考えていると、大きな手のひらが視界に飛び込んできた。 うわ! なになに!? 「お〜い、どうした? いきなり黙っちまって、驚くだろうが」 先生のアクションの方が驚きますって! ……って、あれ? ここ、どこですか? 目的地、着きました? そんな私の反応に苦笑して、先生は車を降りるよう促した。 ここって……レストラン? 腕の時計を見ると、夕飯にはまだ早い時間。むしろ、おやつでもいいくらい。 不思議そうに先生を見ると、さっきと同じような笑みを浮かべていた。 「これから向かうところは、周りには何もないんだ。だからここで、早めの腹ごしらえ」 軽食と温かい飲み物もどこかで調達しなきゃな、なんて言いながら、先生は店へと入っていた。 意味が分からないまま、慌てて先生の後を追う。 『シーズン前だから、お客さんはそんなに多くないんだ』と、お店のオーナーは給仕しながらそんなことを言った。 どうやらこの辺は、桜が咲くシーズンに見物客で賑わう地域らしい。 今年は桜の季節はまだだよな、なんて思いながら、オーナーお手製の料理に舌鼓を打つ。 う〜ん、美味しい♪ そんな私を、先生は苦笑いしつつも優しい柔らかな眼差しで見つめていた。 美味しい料理とオーナーとの話に夢中だった私は、それに気づかなかったのだけど。 お店を出てから途中でコンビニを見つけ、そこでおにぎりと飲み物を調達した。 車内で先生に目的地のことを聞いても、やっぱり教えてくれなくて。 そうやって問答をしている間に、すっかり陽が落ちて、辺りは真っ暗になった。 車道と外灯と山肌しかない景色。 一体、どこへ向かっているのだろう……? 行き先が分からない不安さが募ってきたそのとき、車が止まった。 「さ、着いたぞ。周りが暗いから、俺がドアを開けるまで座っていろ」 先生がそう言うとともに、車のエンジンが止められ、同時にライトも消えた。 うわ……ホントに真っ暗だ。 遠くの方に外灯みたいな淡い明かりがあるように見えるけど、駐車場辺りは明かりがないのかな? あまりの暗さに驚いていると、ガチャリと助手席のドアが開き、先生が顔を見せた。 足元に気をつけながら下りようとする私の手を、いつの間にか先生が握っていた。 「危ないからな。これならお前さんが転んでも助けられるだろう?」 私が転ぶことは決定事項ですか……。 憎まれ口しかたたけないのは、握られた手がとても温かく、優しいから。 周りが真っ暗でよかった。 明るかったら、絶対に顔が真っ赤なことが先生に分かってしまう。 ゆっくりとゆっくりと、さっき助手席から見えていた明かりに向かって歩いてゆく。 そこへたどり着くと、私の視界には今まで見たことのない世界が広がっていた。 うわ〜…… 小高い丘となっているそこから見えるのは、街全体と海の景色。 家やビル、道路の明かりがキラキラと輝いていて、その美しさに圧倒する。 海に架かった橋は、光が水面に反射して、やっぱりキラキラと揺らめいていた。 私は手すりから乗り出すように、暗闇に映し出される幻想的な風景に釘付けになっていた。 ……どれくらいそうしていただろうか? ふいに何かに包まれる感覚があり、それを確かめようと身体を動かそうとする。 が、動かせない。 視線を落とすと、自分の口元には、昼間見たベージュのジャケット。 頭上からは、温かい重み。 私を包んだもの。 それは、先生自身だった。 突然の出来事に、反応はおろか、硬直するだけで何もできなくなる。 せ、せんせい? 何、してるんですか? 「が景色にばかり目を向けて、俺を独りにするからだ」 ええええええええ!? な、なにをおっしゃいますか!? それに今、なまっ、名前呼ばれたっ!? 「ふたりきり、誰も知っているヤツのいないところで、こうしてゆっくりと時間を過ごしたかったんだ」 ……そうか。 先生の言葉を聞いて、ふっ、と我に返る。 先生と私は、公にこういうことができる間柄じゃない。 これから未来を担う子供たちを指導し育てる『先生』が生徒の目があるところでこういうことをしているのは、世間から見て問題になるのだろう。 だから、私にここへ来させたんだ。 電車で何時間もかけて、車で何十分とかけて。 こんなにきれいで幻想的な夜景を見せてくれるために。 ふたりきりで、見るために。 ありがとうございます、金澤先生。 心を込めて言うと、先生は私の頭上で大きなため息をついた。 あれ? 「こんなときまで、お前さんは俺を『先生』と呼ぶのか?」 え……? 「ん?」 えと……か、金澤……さん? 「金澤さん、か。あまり変わってないぞ?」 そっ……、そんなこと言われても……突然そんなことを言われてましてもっ! 「ん〜、そうだな。じゃ、今日はこれで許してやるかね……?」 許すって、何を……っ!? 不意に先生が身体から離れて。 驚いて振り向き、視線を上げて彼を見上げた。 すると、突然目の前が影って、気がつくと、視界いっぱいに広がる彼のウェーブのかかった髪。 これ以上、言葉を続けることはできなかった。 |