あるホワイトデーの風景 <星奏学院 森の広場にて>




 今日が学年末試験の最終日だからか、普通科も音楽科も関係なく、足早に帰路に着く生徒が多く見受けられる。
 その中を逆行し、目的地までの道を歩く。

 星奏学院高校の校内から向かって左側に位置する、広大な深い緑の生い茂った場所。
 それが、『森の広場』。
 私が来るように指定された場所だ。


 広場の入口から敷き詰められた蛇行するレンガの道に沿って歩み進めると、奥まったところ三連の鐘があった。
 上下二段になっており、下段にふたつ、ふたつの間を取った位置の上段にひとつ。
 特に周りに建物があるわけでもなく、装飾や記念碑もない。
 しかしその三連の鐘は、何か独特の雰囲気を醸し出しており、見る者の目を惹きつけるように感じた。


 その鐘の前で、私を呼び出した人物であるこの学院の理事長、吉羅暁彦さんが待っていた。


「……君、君か」


 近づく私の気配に気づいたのか、視線をこちらに向けた理事長は、開口一番にそう言った。
 そして、私の返答を待たずして、再び頭上の鐘を見上げた。

 はい。こんにちは、理事長。
 ……こんなところに鐘があるんですね。知りませんでした。  


「この鐘が鳴らされるときはあまりないからね、卒業生でも知らない生徒はいるかもしれない」


 ……今の言葉、何か違和感があるような気がする。
 鳴らされない?
 鳴らす、じゃなくて、『鳴らされない』の?

 押し黙ってしまった私に、理事長は視線をそのままに、この三連の鐘について話し始めた。


 この鐘は、ファータによって鳴らされるものであり、そして、鐘の音を合図に、その年、学内音楽コンクールが開催されるのだという。
 鐘に視線を移すと、確かに、ここには鐘を鳴らすものが備えられていない。
 引っ張るものも、打つものもないのだ。
 また、非常に高い位置に鐘があることも、人ならず者でないと扱えない代物であると納得する要因になっていた。

 ……『人ならず者』が何かを知っているから、言えることなのだけど。


「……君、少々、昔話をしてあげようか」


 そう言って突然、理事長は話を始めた。


 昔、あるところに、何のとりえもない普通の少年がいた。
 不思議な生き物を見ることのできる家系に生まれた少年は、ふたつ年上の姉とともに、ことあるごとにその不思議な生き物に魔法の実験台にされた。
 不愉快であることは多々あったが、根本は音楽が好きなもの同士、何とかうまくやっていた。
 姉は特に彼らと魔法との相性が良く、いつもいつも楽しそうにヴァイオリンを弾き続けていた。
 少年は、そんな姉の影響もあって、ヴァイオリンを習い始めた。
 そして、姉を追ってこの学校―星奏学院高校の音楽科へと進学した。
 この学校で、ヴァイオリンを弾くことの楽しさを知り、尊敬し目標とする先輩に出会うことができた。
 姉は学校でも楽しそうにヴァイオリンを弾き、不思議な生き物はその姉の音色を生かすように、さまざまな魔法を繰り出していた。

 それが、彼女の命を縮める要因になるなんて、知る由もなく。

 転機は早々に訪れた。
 少年が音楽への道へ進もうかを悩む前に、姉は彼の前からいなくなってしまったのだ。
 それからしばらくは、周りのすべてが色を無くしたようにモノクロの沈んだ世界と化した。
 その一方で、ヴァイオリンを弾くことの意味を見出だせなくなり、姉を蝕む要因を作った生き物たちを恨んだ。

 そしていつしか、彼はヴァイオリンを弾くこと自体を辞めてしまった。
 音楽からも離れ、一切関わりを持つことを拒んだ。


「それなのに、どうしてここに戻ってきてしまったのか……」


 ポツリと呟いた独り言だろうそれは、思いの外大きく、自然と私の耳にも聴こえてきた。
 理事長の視線は、ずっと鐘を見上げたまま。

 話の中の少年は、おそらく、ううん、絶対、理事長自身だ。
 そして、病を押してもヴァイオリンを弾くことをやめなかった亡くなったお姉さんと、尊敬する先輩・金澤先生。
 今、理事長が話したことは、彼が歩んできた道のりだ。
 音楽と出会い、ファータと出会い……それらを自らの意思ですべて捨て去った、彼の過去の話。


 でも、なぜそれを、私に聞かせてくれたんだろう?
 すっごくプライベートなことだし、あまり話したくないことだと思うんだけど……。

 疑問に思って、それをそのまま包み隠さず、理事長に問うてみた。

 すると、彼はずっと見上げていた視線を私へと下ろし、口元にささやかな笑みを浮かべて言った。


「簡単なことだ。……君、君に私を知ってもらうためだ」


 …………え?
 たっぷりと時間を空けて、私は非常に間抜けな声を発した。
 私に、理事長のことを知ってもらうため?
 なぜ、ですか?


「君は、私のことが気になっているから、先月のあの日に贈り物をくれたのではないのかな?」


 『先月のあの日』とはバレンタインデーで、『贈り物』とはチョコレートとタイピンのことと分かる。
 はっきり言うと……間違いでは、ない。
 確かに私は、理事長が気になっている。これは正直に認める。

 けど、話が飛躍しすぎじゃないかな?
 どこをどうやったら、バレンタインデーのお返しが、自分の生い立ちおよび現在までの生き方になるのよ……。


 ふいに、少々肌寒い風が吹き抜ける。
 まだ冷たい風は、ほんの一凪でも体温を奪ってゆく。
 思わず身体を縮こませると、それに気づいたのか、理事長は着ていたジャケットを私に羽織らせると、視線を広場の入口へと向けた。


「そろそろ寒くなってきたな。場所を理事長室に移そうか」


 そういうと、理事長は広場の入口へととっとと歩みだしてしまった。

 呆然と立ち尽くす。
 ……や、呆然とするしかないでしょ?
 だっていきなり、温かな彼の香りに包まれちゃったのよ?
 さっき、気になることを再認識させられたのに、加えてこんなことされちゃ、固まるのも仕方ないじゃない。

 立ち尽くしたままの私を見てため息をつくと、理事長はゆっくり歩み寄り、耳元でささやく。


「こんなところに立ち尽くして、君は、私を凍えさせるつもりなのか?」


 ……そうだ。
 私がジャケットを羽織ってるから、理事長はシャツにベストという姿だったんだ。

 あ、すみません。
 私は大丈夫ですから、これ、お返ししま……!


 慌ててジャケットを脱いで、理事長へと差し出たら、さっきよりも強い彼の香りが私を襲った。
 優しい温かさは、思考能力を奪ってゆく。  最初に目に映ったのは、濃いワインレッドのタイとそれに付けられたゴールドのタイピン。
 見上げた先に、いつもの冷やかな瞳とは違う、優しい眼差し。


 そして、ゆっくりと閉ざされる、私の視界。





 返そうとしていたジャケットを胸にしたまま、私はさらに彼の香りに包まれていった。