あるホワイトデーの風景 <公園の入口にて>




 指定された場所は公園の入口だった。

 待ち合わせ時間よりも早く着きそうだったので、まだ芽がほころんできたばかりの桜並木を見ながらゆっくりと歩く。
 太陽の光を浴びながら、ぽかぽかと暖かい春の陽気を全身で感じる。
 今日はいつもより暖かいみたい。
 公園のベンチで日向ぼっこしたらすっごく気持ちよさそうだな、なんて考えていたら、公園の入口に見知った人物がいることに気づいた。

 それは、私を呼び出した張本人、王崎信武さんだった。

 慌てて王崎さんの元へと駆け寄る。
 すみません、待ち合わせの時間より早く着きそうだったので、のんびり歩いてました。
 そう言ってお詫びすると、王崎さんは首を横に振った。


「おれが早く着きすぎただけだから、さんが謝ることはないよ。……早く会いたかったから、早く着いちゃったんだ」


 ほわんと笑う王崎さんの笑顔に加え、今発せられた言葉に視線が泳いでしまう。
 うう……失礼を承知で言わせていただくと、王崎さんは、ホントに天性のマダムキラーだ!(私はマダムじゃないけど)

 とっ、ところで、今日はどうしたんですか?
 王崎さんからのお誘いなんて、初めてですよね?

 ボランティアやアルバイト、母校・星奏学院高校のオーケストラ部の指導などなど、王崎さんはいつも忙しそうにしている。
 だから、もし今日がお休みというのであれば、私と会うより身体を休めてもらいたいのが、本心。
 でも、せっかくのお休みにこうして私と会う時間を作ってくれたことがすっごくうれしいのも、揺るぎない本心であって。
 複雑な思いを抱えた私に、王崎さんは再びほわんとした笑みを浮かべて、愛用のショルダーバックから何かのチケットを取り出した。

 ……ナイトクルージング?

 取り出されたチケットに書かれた文字をそのまま口にすると、王崎さんはこのチケットについて説明してくれた。

 何でも、ボランティアに訪れた病院で彼の演奏を聴いたご婦人がその演奏に感銘して、
 急遽入院したご主人と行くはずだった遊覧船のナイトクルージングのペア招待券を譲ってくれた、というのだ。
 最初は断ったのだけど、半ば押し切られる形でチケットを受け取ってしまった、というのが王崎さんらしいのだけど。

 そこで、誰を誘おうか考えたとき、一番最初に浮かんだ人物が私、ということらしい。

 わ、私でいいんですか?
 私に白羽の矢を当ててくれたのはうれしいけれど……、こんな素敵なお誘い、私以外に相応の方がいるんじゃないですか?

 不安げに問う私に、王崎さんは安心させるような優しい笑みで首を横に振った。


「正直、初めは誰かに譲ることを考えたんだけど、さんのことが頭に浮かんだとき、一緒にこのナイトクルージングに行きたいって思ったんだ。
 だから、きみが不安がることはないよ。このチケットは、きみに用意したものなんだから」


 ……ありがとう、ございます。
 すごく、楽しみです。

 最初に私のことを思い出してくれて、正直、とてもうれしかった。
 そして、正直……複雑だった。


 搭乗時間まで時間があるから、と、私たちは軽く食事を取ることになった。
 駅前通りにあるテイクアウトのお店で軽食を買い、そのまま公園へ戻った。

 公園のベンチでの、プチピクニックだ。

 公園へ向かうときに考えていたことを王崎さんに話したところ、どうやら彼も同じことを考えていたようで。
 やっぱりおれたちは気が合うんだね、なんて、あのほわんとした笑みで言われて、うれしいやら真に受けていいのやら、非常に複雑な気持ちになった。

 ホットドックのパンを小さくちぎって、足元に近づいてくる鳥たちにあげている王崎さんを見る。

 王崎さんの優しさには、何の計算も謀略も見受けられない。
 純粋に彼の中に存在する当たり前の行為、それがこの「優しさ」のなんだと思う。
 それは老若男女関係なく、彼が出逢ったすべての人に対して隔てなく与えられるもの。
 自然とそれができてしまう王崎さんは、天性の博愛者だと思う。

 でも……。

 時にそれは、相手に「好意」として受け取られかねないもの。
 彼と付き合いの浅い人であれば、彼が万人において「優しさ」を与えることができる人物だと知らなければ、きっと、そう受け取られてしまうだろう。

 分からない。

 優しくされればされるほど、私には分からなくなる。
 彼の、王崎さんのことが。王崎さんの心が。『王崎信武』という人間が。
 そして……自分の気持ちも。


 足元を見つめながらもくもくとハンバーガーを食べていた私は、隣にいる王崎さんが私を見つめていることに気づかなかった。
 その表情が、いつもの「優しい王崎先輩」とはまったく異なる、何かをこらえているような、とても複雑な表情であることにも……。



 船の搭乗時間になった頃には、太陽は赤い夕陽となり、西の空に沈みかけていた。
 乗り込むときにさりげなく足場を気にしたり、先に通してくれたり、手を取ってトラップから降ろしてくれたり、やっぱり王崎さんは相変わらず優しくて。
 その優しさに私は笑顔で返したけれど、さっきの公園での考えが頭を離れなくて、ちゃんと笑えているか、自分でも分からなかった。

 一生に有るか無いかの豪華客船でのナイトクルージング。
 とりあえずは満喫しなければ、と、何とも使命のような、非常に庶民的な感覚を持ってしまい、正直に伝えた相手(もちろん王崎さんだ)に苦笑いされつつも、船内を見て回ることにした。
 寝室、食堂、バルコニー、パーティーフロア、などなどなど……。
 目にするものがすべて初めてで、しかも豪華で。
 普段の生活でお目にかかれないような部屋の数々を見て回っている間は、少なくとも他のことが考えられたので、胸の中のくすぶる想いを考えずに済んだ。


 ひととおり船内を見回った頃、船の外のバルコニーで軽いパーティーが行われるということで、私たちはそれに参加することにした。
 船員さんが配っている飲み物を片手に、船の手すりから風景を眺める。
 街の夜景に反射してキラキラと残像を残しては消えて行く波の飛沫が、とても美しく、とても儚かった。

 ふいに、右側から強い横風が吹いた。

 舞い上がった自分の髪に視界をさえぎられ、驚いて右手に持っていたグラスを落としそうになった。
 しかし次の瞬間、私の側から風の気配は消え、落としそうになったグラスには別の手が添えられていた。

 横風から護るように私の左肩に置かれた、左手。
 落とさないように私の手の上から添えられた、右手。
 身体の後ろから感じる、温かい体温。


 気がつくと私は、そのまま王崎さんに引き寄せられていた。


 突然のことに、言葉が出てこない。
 なぜ? なぜ?
 出てくるのは疑問ばかり。

 そして、なぜ、私は彼にこうされて、涙が出そうになっているのだろう……。

 驚く私に気づいているのかいないのか、王崎さんはそのまま、私の耳元で静かに話し出した。


「昼間、思い詰めたような悲しそうな顔で今にも泣きそうなきみを見て、大学の先輩たちから何度となく言われ続けた言葉を思い出したんだ。
 『期待させちゃダメ』
 『優しさの意味を履き違えないで』
 自分が何を期待させているのだろう? 優しくすることの意味なんてないのに、どうしてそう言われるのだろう?
 今までずっと、分からなかった。言葉の意味も、言われている理由も。
 でも、今日のきみを見て、その意味がやっと、分かったんだ」


 王崎さんは、私に何が言いたいのだろう?
 不思議に思っていると、私の肩を抱く手に力がこもった。
 あれ? と思う間もなく、私の身体は反転させられ、向かい合った王崎さんの腕の中へと、そのまま抱きしめられた。

 動揺しまくる私をさらにきつく抱きしめて、彼は静かに、でもはっきりとした声で言った。


「……きみが、好きだ。もう、きみに良い格好を見せようといい人を演じるのは止める。きみにだけ、おれの想いをあげるよ」


 幻聴だと思った。
 都合のいい思い込みだと思った。
 でも、私の耳に残る声と、耳を掠める吐息が、それを真実だと教えていた。

 驚きとうれしさで言葉が、声が出てこない。
 代わりに出てきたのは、静かに頬を伝う嬉し涙。
 涙腺が関を切ったように涙がとめどなく溢れてくる。
 嬉しいのに、微笑みたいのに、私の意思に反して涙は止まってくれない。


「……ちゃん?」


 突然初めて名前で呼ばれて、半信半疑でゆっくりと彼を見上げる。
 月明かりに浮かぶ彼の笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも優しく、温かかった。


 その笑顔を見て、また流れた私の涙を拭うように


 彼の笑顔と同じくらい優しい唇が





 私のまぶたに、そっと、触れた。