あるホワイトデーの風景 <星奏学院 音楽科棟 屋上にて>




 指定された場所は、学院で唯一解放されている、音楽科棟の屋上だった。

 屋上に続く階段を上ろうとすると、何かの音が微かに聴こえた。
 そのまま階段を上っていくと、その音は徐々に大きくなり、だんだんと形を作っていった。

 屋上に続く重い扉を開けると、形作った音は、チェロが奏でる優しい音となって飛び込んできた。
 そこには、その優しい音を形作っている、私を呼び出した張本人、志水桂一くんがいた。

 目を伏せ、口元に笑みを浮かべながらチェロを奏でている姿を見て、自然と顔がほころぶ。
 春風に吹かれながら演奏している彼は、気持ち良さそうに音を奏でていて、さらに奏でている曲がとても心地よい音で、声を掛けるのをためらってしまう。
 その音をもっと聴いていたくて、演奏している彼をもっと見ていたくて、そんな彼の邪魔をしたくなくて。

 私の迷いが彼に届いてしまったのか、突然音色が止み、彼の身体ごと自分の方を振り返られた。
 心の準備ができていなかったので、その行動に驚いてしまった。
 けれど彼は、そんな私の動揺に気づくことなく、にっこりと笑みを浮かべた。


「あ、先輩、来てくれたんですね。ありがとうございます」


 ふんわりと笑む彼の天使の笑顔に、動揺はさらに深まる。
 立ち尽くす私に、彼は小首をかしげてぽやんとした表情で見ていた。

 お、お願いだから、そんな可愛い仕草で私を見ないで……!
 心が悲鳴を上げる。
 それは私の全身を駆け回り、すべての動きを封じてしまう。


先輩、こっちです」


 志水くんは、自分が座っているベンチの隣をぽんぽんを叩いて私を見た。
 どうやら、『ここに座って』と言っているようだ。

 固まって立ち尽くしたままでいるのもおかしいので、彼に促されるまま隣に腰を下ろす。
 このドキドキが、彼に伝わりませんように……。
 そんな風に願いながら。


 座ってから間もなくは他愛のない話をぽつぽつとしていた。
 そして、気づく。
 彼が、チェロを抱えていないことに。
 いつもなら、そのままチェロを身体の一部のように抱えながら話すのに、今日の彼の腕にはチェロがない。
 近くにむき出しで置かれていないことから、どうやらケースへと仕舞われたようだけど、明らかにいつもと違う。
 でも、彼の淡々とした口調や発せられる言葉に普段と違う気配はない。

 何かが違うな……。
 そう思い始めたとき、ふいに会話が止まった。

 私が考え事をしていたから、受け答えが上の空になっていたかな?
 不安を抱えて彼に視線を向ける。
 すると彼は、鞄の中をごそごそと探っているところだった。
 彼の行動に、今度は私が首をかしげる。

 探し物があったのか、難しい顔をしていた彼の顔が明るく変化すると同時に、私の目の前には、淡いピンク色の四角い箱が現れた。


先輩、手を出してください」


 言われるまま手を、しかも両手を出してしまった私の手の上に、彼はそっとその箱を置いた。
 首をかしげたまま彼を見ると、そこにはまた、天使の笑顔。
 わけが分からぬまま、彼の笑顔と両手の上に置かれた箱を交互に見てしまう。

 えっと、これって、もしかして……。

 言葉にせず視線だけでそれを告げると、彼はその笑みを深めることで答えてくれた。


「バレンタインデーのチョコレートのお返しです」


 やっぱり、これはお返しなんだ。
 志水くん、ちゃんと覚えていてくれたんだね。
 バレンタインデーの当日、その日が何の日か分からずに、いろいろな女の子たちからチョコレートをもらっていた彼を思い出す。
 そんな彼だから、失礼だけどそう思ってしまうのは否めないだろう。
 じわじわとうれしさがこみ上げる。

 ねえ、開けてもいいかな?

 期待に満ちた顔で彼を見ると、やっぱりその顔には笑みが浮かんでいて。
 わくわくしながら包装されていたラッピングを解き、箱を開ける。

 そこには、包装紙と同じ淡いピンク色をした小箱が入っていた。
 宝石箱のようで、ふたはシースルーで中身が見えるようになっている。
 腫れ物を触るように、ゆっくりとふたを開けてみる。

 すると、箱から小さな優しい音がこぼれおちた。
 微かなそれは、にぎやかな校庭からの声に今にもかき消されそうだった。
 箱を耳元に近づけ、瞳を伏せてその音色を確かめる。
 涼やかに透き通った音は、ざわつく外部からの騒音を少しずつ消して行く。

 そして、かすかに感じた既視感。


「……オルゴール付きの宝石箱なんです」


 隣から、静かに志水くんの声がした。
 伏せていた瞳を開け、耳元の宝石箱はそのままに彼を見る。

 視線が、合わさる。


「お返し、何にしようかすごく悩んで、何をあげたら先輩が喜んでくれるかなって思って」


 志水くんはまた、鞄の中から何かを取り出した。
 それは、お世辞にもきれいとはいえない手書きの楽譜。
 最初は真っ白な五線譜だっただろうそれは、幾重にも音符や文字が書き足されていて、試行錯誤の跡が如実に表れていた。

 もしかして、これ……志水くん、が?

 口にした疑問に答えたのも、彼の微笑みだった。


「あなたを想うと、自然と音が溢れてくるんです。いつも、どこにいても。あなたのことを考えると、僕の中から音楽が溢れ出すんです。
 その音を拾って、書き溜めたのがこれです。この曲は、僕の中の、あなたなんです。……それも」


 彼は私の耳元にあるオルゴールを指差した。

 これ、も?

 耳元から離し、彼の目の前にオルゴールを差し出す。
 すると彼は、宝石箱の内部にあるアクセサリーを置くための台を取り外した。
 取り外した台の下には、涼やかな音を奏でるオルゴールの基盤があった。
 むき出しになったそれは、今もなお変わることなく涼やかな音を奏でている。


「僕の中のあなたを形にしたくて、それを、あなたに聴いてほしくて。実家の姉に頼んで、オルゴールにしてもらったんです」


 屋上に上がってきたときに志水くんが演奏していた曲は、彼が作曲した曲だったんだ。
 オルゴールの音色を聴く直前に聴いた曲だったから、聴き覚えのある曲だって思って、既視感を感じたんだ。

 その曲を、オルゴールにして私にプレゼントしてくれて。
 しかもその曲は、彼が私のために作ってくれた、私の曲で。


 ……すごく、うれしい。


 潤んでしまう視界の中、ふと、オルゴールの基盤に、何か文字が彫られていることに気づく。
 金色の基盤に彫られたその文字を目にして、潤んでいる瞳が大きく開かれたのを、自分のことながら感じた。



  My Muses and My Dearest』
    ―― 僕のミューズ そして 僕の最愛の人へ ――


 見開いた瞳のまま、オルゴールから彼へと視線を移す。
 はにかんで照れたように頬を染める彼は、歳相応の少年の表情をしていて、その表情に、どこか安堵してしまった自分がいて。
 同じようににっこりと笑うと、瞳に溜まっていた涙が、すぅっと頬を伝っていった。

 慌てて涙を拭おうとした私の手は、なぜか、志水くんに優しく留められた。
 そしていつの間にか、オルゴールを手にしたままの私の両手は、志水くんの両手に包まれていた。
 もう一度、彼に視線を移すと、さっきよりも近い位置にいる彼を感じて。

 瞳を閉じる間もなく、頬に伝った涙の跡に、彼の唇が優しく触れた。

 歳相応な少年の表情はどこへやら、次に見た彼の顔は、少年ではなくひとりの男性の表情をしていて、
 その表情に、私の視線はとらわれたまま。


 再び近づいてきた彼に、とらわれた視線はゆっくりとその視界を閉じた。



 閉じられた視界の中、私の唇に降りてきた彼のそれは、

 彼の微笑みのように


 優しく、ふわふわと





 羽のように、私を包み込んだ。