あるホワイトデーの風景 <星奏学院 音楽科練習室棟にて> 校舎から出てくる生徒たちとすれ違いながら、指定された場所へと向かう。 場所が場所だけに、彼らとは違う制服を着ているということだけで非常に目立つ。 同じ学校の生徒なのに、学科が違うだけで余所者と扱われ、加えて好奇な目で見られるのはいかがなものか。 特殊な環境だなぁ……なんて他人事のように考えている間に、指定された場所への扉の前に来ていた。 指定された場所、それは、音楽科校舎の練習室棟だった。 扉のガラスから中をのぞくと、呼び出した張本人である柚木梓馬……先輩がいた。 敬称がワンテンポ遅れたことについては、ご容赦いただきたい。 ピアノの椅子に座っている彼は、優雅に足を組んで、ついでに腕まで組んでいて、こうもまあ、横柄な態度が貴公子のごとく様になってしまう人間もいないよなぁ……。 彼を待たせているのも忘れてそんなことを考えていたら、突然、目の前の扉が開かれ、視界には仁王立ちした貴公子が不適な笑みを浮かべていた。 「、俺を待たせておいて、いつまでそんなコソコソと見ているつもりだ?」 本当にこの練習室でいいのか、外から確認してたんじゃないですか。 間違えて入ってしまったら、練習してる方々の迷惑になってしまいますからね。 私の言い分はもっともだと思うのに、彼はそれを乾いた笑いで一蹴した。 ……何? 「学科の違うおまえはここでは余所者なんだ。少しは周りの目を気にしろ」 あなたまでそれを言いますか!? まったく、変な壁を作るのが好きな学科ですねぇ。 呆れてつぶやく私に、彼は同じく呆れたようにため息をついた。 ……分かってますよ。 私がこの学科の皆さんから妙な攻撃を受けないよう、懸念してくれてるんですよね? ご心配、痛み入りますよ。 「俺は、気に入ったおもちゃを他人に渡すようなまねはしないだけだ」 はいはい、そういうことにしておきますよ。 で、私をここへ呼び出した理由は何ですか? そう、私は彼に呼び出されたんだった。 場所まで指定されて。 危うく、本来の目的を忘れてるところでしたよ。 そう言う私の言葉を再び乾いた笑いで一掃すると、彼はピアノの椅子に座りなおし、これまた優雅に足を組んだ。 入口にずっと突っ立っているのも妙なので、座るものはないか、部屋を見回す。 部屋の隅にある小さな机の上に、足を上に向けて乗せてある椅子があったので、それを下ろして座ることにした。 座った席はピアノ伴奏者と向かいの位置にあり、必然と彼と向かい合う形となった。 ……で、さっきから聞いてますが、練習室に私を呼び出した理由は何ですか? 向かい合う彼をじぃっと見つめて問うけれど、返ってくる答えはどれも明確な答えになっていない。 『うるさい』 『何度も同じことを聞くな』 『そんなに聞かれると、逆に教えない』 いつもの彼じゃない。 いや、彼らしくない答え方、というべきか。 返答する言葉や態度は相変わらずなのだけど、答え方が彼らしくない。 答えだけを聞くと、単に子供が駄々をこねているような言葉を並べて、人の神経を逆なでしているだけに過ぎない。 でも、その『答え方』が問題で。 どこか迷っているような、何かを言いあぐねているような、そんな気がしてならない。 根拠はないし、確定した自信があるわけじゃないけど、なんとなく……そんな気がする。 あの……柚木先輩? 何かあったんですか? それとも、何か私に言いたいことでもあるんですか? 思ったままそれを口にすると、いつもの飄々とした彼の表情が驚きに変わった。 それは滅多に表に出すことのない、素の柚木先輩の顔があった。 予想外の反応に、逆にこちらが驚いてしまう。 彼は組んでいた足を解いてピアノに向かい、何回か瞳を瞬かせたあと、静かに目を伏せた。 「……どうして、そう思った?」 それを問われても、明確な理由はない。 なんとなく、そう感じたから言ったまでのこと。 正直に話すと、大きく大きくため息を吐かれた。 カチンとくるけど、私を見る呆れたような、でも嬉しそうな表情に、文句の言葉は消え失せた。 「まったくお前は……」 続きの言葉は彼の口からは出てくることなく、その替わりなのか、普段は人前では弾かないピアノを奏で始めた。 曲は……ドビュッシーの『月の光』。 その選曲に、私は驚きを隠せなかった。 私が好きで好きで、好きすぎて聴くだけじゃ我慢できなくなって、自分で引きこなしたいと思った初めての曲。 ずっと練習して、今も練習し続けていて。 私の中で最上の位置を占める、とても大好きな曲。 それを知ってか知らずか、彼は私の目の前でその曲を奏でている。 彼の指先から紡がれる切ない音色に身をゆだねようと、静かに瞳を閉じる。 音が身体いっぱいに、空間いっぱいに広がるのを感じる。 すごい、幸せかも……。 ふいに音色が止み、幸せな空間が一瞬にして現実に切り替わる。 何だろう、と瞳を開けると、視界いっぱいに柚木先輩の顔が映った。 驚いて思わずまた瞳を閉じると、自分の唇に優しく柔らかな感覚が触れた。 それにまた驚いて、今度は開けようとした私の瞳を彼の手が塞いだ。 当然、視界は真っ暗。 さっきの出来事といいこの行為といい、いくらでも出てくるはずの文句が思うように出てこないのは、あの何かを言いあぐねているような表情と、視界を塞ぐ手がかすかに震えているから。 沈黙が続く。 ふいに視界が明るくなり、眩しさに目を細めたその先には、椅子が置いてあった机に私に背を向けて座っている彼の後姿。 机に座っても、やっぱり足は組むんだね。 変なところに納得している私は、さっきの出来事に思考回路がどこか狂ってしまったらしい。 そんな狂った思考回路に、彼はゆっくりと情報を綴り始めた。 お祖母様から、今日は早く帰るよう言われていること。 その理由は、某財閥の令嬢との会食であること。 会食とは名ばかりで、本来の目的は見合いであるということ。 まあ、つまりはそれをボイコットするための駒として、私はここに召集されたということか。 何かあるとは思っていたけれど、彼がこういう性格の人間と分かってはいたけれど、今日が何の日か分かっていて、しかも変に期待しちゃったものだから、呆れるよりも切なさが募る。 しかし、そんな考えは彼の次の言葉に霧散した。 「今日は、ホワイトデーだろう? だから、あの人の思惑に従うのはご免だ。今日は俺の自由に過ごす。 だからお前をここに呼んだんだ。と……今日一日を一緒に過ごすために。」 耳を疑った。 空耳かと思った。 夢を見ているのかと思った。 言われた瞬間に、『そんなわけないだろう』と一蹴されると思った。 でも、いつまで経っても否定の言葉は聞こえることはない。 ……ってことは、さっきの言葉は、彼の本心? 彼の言葉が現実であることを確かめるように、席を立って目の前の背中に抱きついてみた。 私が立つところより柚木先輩が座る机のほうが低い位置にあるので、抱きついた私は自然と彼の肩にあごを乗せる形になる。 一瞬驚いたようにびくっと動いたけれど、本当にそれは一瞬で。 珍しく、されるがまま振りほどこうとしない私の腕に、そっと彼の手が添えられる。 それは、今の私の行為を肯定してくれた、私だけに許されたトクベツな証。 添えられた彼の手を握り返し、彼の耳元に小さく、でもはっきりと囁く。 これからもずっと、あなたのそばにいますから。 邪険にされても、邪魔者扱いされても、絶対に離れませんからね。 だから、覚悟しててください。 あなたは一生、私から離れられないんだから。 私の言葉に、ふっと笑う声。 ゆっくりと私の方に反転した彼は、優等生の柚木様ではなく、彼の……柚木梓馬自身の顔をしていた。 それは、私だけに見せる、彼の、心からの笑顔だった。 見下ろしている彼の肩に手を置き 私はさっきのお返しをすべく 彼に顔を、近づけていった。 |