気持ちを新たにピアノを弾いていると、突然、背後から大きな音が響いた。 あまりの音の大きさに、驚きに身体を震わせ、衝動のまま振り返る。 入口の扉は大きく開いたまま、窓ガラスは開けられた衝撃にビリビリ震えていた。 勢いよく扉を開けただろう人物は、部屋に一歩踏み入れた状態で立ち尽くしている。 いや、仁王立ちしている、という表現が合っているかもしれない。 両脇に下ろされた腕。 でも、拳は硬く握られていて、小刻みに震えている。 眉間にはシワが寄せられ、眼差しはいつにも増して鋭くなっていた。 真一文字に結ばれた口元は、固く閉ざされたまま。 何を言うわけでも、何かをするわけでもなく、彼は……土浦くんは、私を見ていた。 ……怖い。 ただ、そう、思った。 「ど、どうしたの?」 ピアノの鍵盤に手を置いて振り返った姿勢のまま、そう言うのがやっとだった。 運動部に所属しているからか、彼の他人に対する礼儀は人一倍きちんとしている。 だから、ノックもなしに練習室の扉を開けたり、その扉を開けたまま締めずにいたり、そんな行動は彼らしくなかった。 そして……困っているような、苦しんでいるような、そんな彼の表情も。 私の問いに答えることなく、彼はずっと、じっと、私を見ている。 落ち着くために、ひとつ、深呼吸。 さすがにこのまま扉を開けっ放しにすると、廊下を通る他の生徒の好奇の目にさらされることは間違いない。 ただでさえ、土浦くんも私も、音楽科の練習室では見かけない、普通科の制服を着ているのだから。 椅子から立ち上がり、微動だにしない土浦くんの横を通り抜け、練習室の扉を閉めた。 「……さっき、柚木先輩が、来てただろう?」 ずっと黙っていた土浦くんから発せられた言葉に、今度は私が言葉を失う。 なんで、それを知っているの? 息を飲んだ私に、土浦くんは気づくことなく言葉を続けた。 「日野たちと練習したとき、おまえの音、かなり荒れていたから気になって来てみたんだ。 そうしたら、ここから先輩が出て行くところを見かけた」 「……そう、なんだ」 扉に向かっていた身体を「動け動け……」と念じて、ゆっくりだけどピアノへと歩を進ませる。 そう言い聞かせないと、倒れてしまいそうだった。 一番、見られたくない人に、見られていたなんて。 「……なんでだよ」 思ったより近くで声がした。 驚いて振り返ると、扉の近くにいた彼は、いつの間にかピアノに近い私のすぐ後ろに立っていた。 全然、気づかなかった。 「なんで、先輩なんだよ」 質問の意味が、分からない。 怖くないと分かっていても、気持ちとは関係なく、顔が恐怖にこわばる。 「なんで、俺じゃないんだよ」 だから、何が? 彼の剣幕に驚いて、意志とは関係なく、身体が後ずさる。 「なんで……なんでなんだよ!」 わけが、わからない。 ずるずると後ずさり、こつん、と、かかとがピアノの椅子にぶつかって、そのまま椅子に腰掛けてしまう。 ピアノへ背を預ける形で座ってしまった私の視線は、彼の顔から動かないまま。 見上げた彼の表情は、やっぱり、なぜか泣きそうで、苦しそうで。 心が、痛い。 彼を見ているのが苦しくなってうつむいた瞬間、背後からバーン、と不協和音が響いた。 驚いて視線を上げると、目の前には、彼の、顔。 彼は、座っている私の両側からピアノへ腕を伸ばし、ピアノと彼の間に私を置いた。 まるで、閉じ込めて逃がさない、と、言っているように。 「先輩がいいのか?」 さっきの質問も、行動も、今の問いかけも、何もかも、私には分からない。 先輩がいいのか、って……何が? 返す言葉も思い浮かばないまま、ただ土浦くんを見つめるしかない。 そんな私にさらに追い討ちをかけるように、彼は言葉を続ける。 『なぜだ?』 『どうしてなんだ?』 『先輩のせいなのか?』 『俺じゃないのか?』 どうして怒っているの? どうして詰め寄るの? どうして怒鳴るの? どうして? どうして?? ……あなたは、何を、聞きたいの? 「……からないよ」 「は?」 蚊の鳴くようにか細い声を、激昂していても彼は聞き逃さなかったようで。 呟くように発した私の言葉に、彼は機関銃のような質問責めをピタリと止めた。 一度目を閉じて、次の瞬間、目の前の顔を睨みつける 鋭い目つきが一瞬怯んだ。 でも、怯んだのは表情だけで、両脇の腕は外されることはなかったけど。 「土浦くんが何で怒っているのか、私、全然分からない。何で責められているのかもまったく分からない。 ……っていうか、いきなりノックも無しに部屋に入ってきて、独り言呟いたと思ったらすごい怖い形相で人をピアノに追い詰めて、 一方的に質問! 質問!! 質問!!! 意味分からない! なんなのよ! なぜ、どうしてって行動を取ってるのはそっちじゃない!!」 ……爆発した。 一気に爆発した。 土浦くんに対する、今までの恐怖とか、疑問とか、不安とか。 蓄積したそれらが、言葉と一緒に一気に流れ出た。 いきなり私が攻撃態勢になったからか、土浦くんの鋭い目つきはどこへやら、ぽかん、とした表情で目を丸くして。 逆に、こちらが鋭い目つきで彼を睨んでいる状況。 今にも噛み付かんばかりの私の様子に、土浦くんはやっと状況を理解してくれたようで。 私を拘束していた両脇の腕は、ゆっくりと離れていった。 やっと、自由になった。 ……と、思ったのも束の間。 次の瞬間、目の前に見えるのは、カーキ色のジャケット、臙脂色のネクタイ、ベージュのシャツ。 そして、太陽のような、温かなぬくもり。 もしかして。 や、もしかしなくても。 私、 土浦くんの腕の中にいますか〜っ!? 頭の中は一気に真っ白になって思考停止。 身体は指先すら動かすことができないほど硬直状態。 さっきの勢いはどこへやら、私のすべては、見事に電池切れのロボットのように動かなくなった。 「……悪かった」 頭上から聞こえる声は、同時に、胸元に押し付けられた顔から全身へと響く。 質問責めしていたときとは全然違う、穏やかで、優しい声。 ドキドキと脈打つ私の鼓動が、どうか彼に気づかれませんように。 ……少し落ち着け、私の心臓。 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、ひとつため息をついて、土浦くんは話し続けた。 「おまえが心配で、練習している音を聴いていた。何度も何度も繰り返し弾いても音は変わらなくて……不安になった。 気になって練習室を覗いたら、柚木先輩がいた。それを見た瞬間、この場にいたくないと思って、練習室棟を飛び出した」 き、聴いていたの? あのひどい音を、彼に聴かれていたの? そして、柚木先輩と一緒にいた私も、見られていた……。 「それでも気になって戻ってきたら、練習室を出て行く柚木先輩がいた。そして、おまえの音が聴こえてきて……驚いた」 驚いた? なぜ? 「あんなに荒れて危うかった音が、しっかりと心に響く力強い音になっていた。いつものおまえの音が戻って嬉しかった反面……悔しかった。 どうして、おまえを支える役が、俺じゃなかったんだろう、って。」 あ……。 よかった。 私の音、元に戻ったんだ。 ……って、あれ? 今、なん、て……? 「私を、支える……?」 「そうだ」 彼の胸元からゆっくりと顔を上げ、土浦くんを見上げる。 同じように、土浦くんもまっすぐに、私を見つめていた。 彼の表情はもう、泣きそうでも、苦しそうでも、怖くもなかった。 目つきが鋭いのは変わらないけど、でも、そこには確かに、優しく温かなものがある。 「俺は、おまえの弾くピアノが好きだ。おまえの音が好きだ。何よりおまえが、自身が…………」 まっすぐに見つめられて。 欲しかった言葉を言われて。 瞳からは、意志に関係なく雫がこぼれて。 必死で答えを返している私の、頬に伝う涙を優しく拭ってくれたのは。 誰よりも、何よりも、大切な。 愛しい彼の、優しい、唇。 |