何回か通して練習して、気になるところを繰り返し繰り返し弾いて……ため息。 どうしたら、うまく弾けるのだろう。 どうしたら、できるのだろう。 どうしたら……。 「……今、落ち込んでる暇はない!」 気合を入れなおしてピアノに向き合うと、微かに乾いた音が聞こえた気がした。 気のせいかと思い、鍵盤に両手を置こうとすると、やはりコツコツと乾いた音がする。 音のするほうへ顔を向けると、そこには人影があった。 練習室の入口、扉の擦りガラスの向こう。 見える人影は上半身の半分。 白い上着に黒いスカーフ。 そして、肩にかかる、流れるようにまっすぐな、髪。 人物の正体が分かった途端、思わず大きなため息が漏れたのは……否めないだろう。 向こうも、私が気づいたことが分かったのか、扉を叩くのを止めていた。 仕方なく重い腰を上げ、練習室の扉を開けた。 そこには、予想通りの人物である、コンクール参加者の音楽科3年・柚木梓馬先輩がいた。 人の良さそうな笑顔で練習室に入って来た彼は、私が扉を閉めた途端、その笑顔の仮面を剥がした。 彼は、自分の正体を知っている私に最初こそ驚いたけど、今はそれを理由に意味もなく現れる。 正直、今、一番会いたくない人物だった。 ******************************************** 「おまえ、何ですぐに扉を開けなかったんだ?」 部屋に入って、私の隣にある連弾用の椅子に優雅に座って早々、開口一番がそれですか。 質問に答えるのも、"何か用ですか?"と問うのも面倒になり、無言でピアノの椅子に座る。 同じように座っていても、座高が私より高い分、彼は私を見下ろす形になる。 自分より高い位置から見られていることは気配で分かる。 でも、今の私にとって、彼の質問に答える時間、彼と話す時間の、その一分一秒が惜しいのだ。 すると、あからさまなため息が聞こえた。 「……そんな顔で弾かれるピアノが、かわいそうでならないよ」 何を言っているんだろう、と思って彼を見ると、珍しく眉根を寄せ、心底困っているような顔をしていた。 いつもは自信たっぷりで、人を見下す表情をしているのに。 らしくない彼の態度と表情に、私はすっかり言葉を失い、まじまじと彼を見つめてしまった。 「今のとその前の表情を、ぜひおまえ自身に見せてやりたいね」 「……先輩、何かあったんですか?」 そういって見せる表情は、シニカルに笑っているけどやっぱり困っているようで。 理由が分からない私は、とりあえず質問してみた。 私は、さっきの質問には答えていないけれど。 「何かあったのは、おまえのほうだろう?」 思わず顔がこわばる。 何の心構えもしていなかったから、表情を隠すこともできなかった。 きっと、彼にこの動揺は気づかれている。 「珍しく練習室の予約簿に名前があるから何かと思えば、聴こえてくる音はまとまりがなくて乱れていて……聴くに堪えない」 "隠れて人の練習を聴いているなんて、悪趣味ですね" いつもの私なら、これくらいの返答をすることができる。 それに対する新たな攻撃に、次々と反撃することもできる。 でもそれは、普段の、攻撃態勢が整っているときの、私。 今の私に、それはできない。 頭では反撃しているのに、それが口まで到達しない。 口から、その反撃が発せられない。 わなわなと唇を震わせるしかできない。 それは、彼の言うことが、事実だからだ。 「おまえも俺と同じで気持ちを隠すのは上手いが……音までは隠せないようだな」 ……やっぱり。 聡い彼のことだ。きっと、私がこうなっている理由がどこにあるのか、気づいているのだろう。 言われた言葉に、苦笑いが浮かんだ。 まさに、彼の言うとおりだった。 弾けば弾くほど、理想とする音から離れていって。 焦れば焦るほど、上手く弾けなくて。 譜面に向き合えば向き合うほど、どう弾いていいか分からなくなって。 考えれば考えるほど、何をしていいか分からなくなって。 苦しくて目を伏せれば、浮かぶのは、日野ちゃんと一緒に笑う土浦くんの顔。 決して日野ちゃん以外の人には見せない、優しい温かい、笑顔。 その笑顔を消したくて、またピアノに向かって練習するけど、やっぱり上手く弾けなくて。 見事なまでの、堂々巡り。 それをこの人は、音だけで分かってしまった、ということか。 「お見事ですね、先輩」 「まあ、伊達に何年も仮面をかぶっちゃいないさ」 「ふふ……確かに」 彼の軽口に、笑った。 けど、私は、本当に……笑えているのだろうか? 「何があったかは聞かないでおくよ。おまえも話す気は無いだろうし、俺もそれを聞いて何かしてやろうとは思わないから」 俺様柚木様らしいな、と思った直後。 ポ〜ン……と、彼はすぐ目の前にある音を鳴らした。 鳴らした音は、ピアノの鍵盤の、真ん中の「ド」から1オクターブ高い音。 「これが、今のおまえ」 鳴り響く「ド」の音に加えられたのは、隣の「レ」の音。 見事なまでの、不協和音。 「自分の気持ちを偽って、自ら不協和音になっているのが、今のおまえだ」 「……」 言葉が、出ない。 そんな私の状態を知ってか知らずか、次に鳴らされた和音は、「ド」の音と1オクターブ上の「ド」の音。 8度の完全協和音と呼ばれる組み合わせ。 「完全な協和音を鳴らせとは言わない。だが、例え不完全であろうと、周りを不安にさせない協和音を持つことも、時には必要だ」 そう言って鳴らすのは、「ド」の音と「ラ」の音。 6度の不完全協和音と呼ばれる音。 「少なくとも俺には……それが必要だったからな」 ぽつりとこぼれた独り言のようなつぶやきは、聞こえなかったことに、する。 ******************************************** しばらく、水を打ったような沈黙が続いた。 けれどそれは、息苦しいような窮屈さはなく、不思議と落ち着く、心地良い静寂だった。 その静寂をかき消すように、柚木先輩は椅子から立ち上がった。 「……もう、戻れるか?」 主語は、ない。 何に対して、とは言わない。 でも、ゆっくりとうなずく。 立ち上がった彼を見上げ、瞳を見据える。 「戻れるかどうかは分かりませんが……不完全でも、戻ります。それが、今の私です」 答えになっていないのかもしれない。 彼らの姿を見て、平常心を保てないかもしれない。 それでも、それが今の「私」だから。 嘘偽りのない、不完全だけど協和したい、私の姿だから。 「……おまえらしい、な」 そう言って微笑んだ顔は、今まで見たことのない、柔らかで穏やかな笑顔だった。 でも、その笑顔はほんの一瞬で。 気づくと彼は薄く笑みを浮かべ、いつもの仮面を取り付けていた。 「それじゃあ、僕はこれで失礼するよ。練習中、お邪魔してごめんね」 「いえ。いろいろと……ありがとうございました」 椅子から立ち上がって、頭を下げる。 ふっ、と笑う息遣いが聞こえて、彼が歩き出す音がする。 そして、練習室の入口が閉まる音がするまで、私は頭を下げたまま、彼を見送った。 彼が少し見せてくれた、本当の姿と、気持ちに対し。 心からの、感謝と敬意を。 再び、練習室に静けさが戻った。 心機一転……とまではいかないけど、きっと、さっきより冷静にピアノに向かえるはず。 新たな心構えとともにピアノと、楽譜に向かう。 うん、私は、大丈夫。 ******************************************** でも、気づかなかった。 先輩を練習室に招き入れ、話しているところを、 彼に、見られていたことに。 その彼が、 私の知らないところで、 大きな大きな、誤解をしていることに。 |