何回か通して練習して、気になるところを繰り返し繰り返し弾いて……ため息。
   どうしたら、うまく弾けるのだろう。
   どうしたら、できるのだろう。
   どうしたら……。


   「……今、落ち込んでる暇はない!」


   気合を入れなおしてピアノに向き合うと、微かに乾いた音が聞こえた気がした。
   気のせいかと思い、鍵盤に両手を置こうとすると、やはりコツコツと乾いた音がする。

   音のするほうへ顔を向けると、そこには人影があった。

   練習室の入口、扉の擦りガラスの向こう。
   見える人影は上半身の半分。
   白い上着に黒いスカーフ。
   そして、肩にかかる、流れるようにまっすぐな、髪。


   人物の正体が分かった途端、思わず大きなため息が漏れたのは……否めないだろう。


   向こうも、私が気づいたことが分かったのか、扉を叩くのを止めていた。
   仕方なく重い腰を上げ、練習室の扉を開けた。


   そこには、予想通りの人物である、コンクール参加者の音楽科3年・柚木梓馬先輩がいた。
   人の良さそうな笑顔で練習室に入って来た彼は、私が扉を閉めた途端、その笑顔の仮面を剥がした。

   彼は、自分の正体を知っている私に最初こそ驚いたけど、今はそれを理由に意味もなく現れる。


   正直、今、一番会いたくない人物だった。



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   「おまえ、何ですぐに扉を開けなかったんだ?」


   部屋に入って、私の隣にある連弾用の椅子に優雅に座って早々、開口一番がそれですか。
   質問に答えるのも、"何か用ですか?"と問うのも面倒になり、無言でピアノの椅子に座る。

   同じように座っていても、座高が私より高い分、彼は私を見下ろす形になる。

   自分より高い位置から見られていることは気配で分かる。
   でも、今の私にとって、彼の質問に答える時間、彼と話す時間の、その一分一秒が惜しいのだ。

   すると、あからさまなため息が聞こえた。


   「……そんな顔で弾かれるピアノが、かわいそうでならないよ」


   何を言っているんだろう、と思って彼を見ると、珍しく眉根を寄せ、心底困っているような顔をしていた。
   いつもは自信たっぷりで、人を見下す表情をしているのに。
   らしくない彼の態度と表情に、私はすっかり言葉を失い、まじまじと彼を見つめてしまった。


   「今のとその前の表情を、ぜひおまえ自身に見せてやりたいね」

   「……先輩、何かあったんですか?」


   そういって見せる表情は、シニカルに笑っているけどやっぱり困っているようで。
   理由が分からない私は、とりあえず質問してみた。
   私は、さっきの質問には答えていないけれど。


   「何かあったのは、おまえのほうだろう?」


   思わず顔がこわばる。
   何の心構えもしていなかったから、表情を隠すこともできなかった。
   きっと、彼にこの動揺は気づかれている。


   「珍しく練習室の予約簿に名前があるから何かと思えば、聴こえてくる音はまとまりがなくて乱れていて……聴くに堪えない」


   "隠れて人の練習を聴いているなんて、悪趣味ですね"

   いつもの私なら、これくらいの返答をすることができる。
   それに対する新たな攻撃に、次々と反撃することもできる。
   でもそれは、普段の、攻撃態勢が整っているときの、私。

   今の私に、それはできない。
   頭では反撃しているのに、それが口まで到達しない。
   口から、その反撃が発せられない。
   わなわなと唇を震わせるしかできない。



   それは、彼の言うことが、事実だからだ。



   「おまえも俺と同じで気持ちを隠すのは上手いが……音までは隠せないようだな」


   ……やっぱり。
   聡い彼のことだ。きっと、私がこうなっている理由がどこにあるのか、気づいているのだろう。
   言われた言葉に、苦笑いが浮かんだ。


   まさに、彼の言うとおりだった。


   弾けば弾くほど、理想とする音から離れていって。
   焦れば焦るほど、上手く弾けなくて。
   譜面に向き合えば向き合うほど、どう弾いていいか分からなくなって。
   考えれば考えるほど、何をしていいか分からなくなって。
   苦しくて目を伏せれば、浮かぶのは、日野ちゃんと一緒に笑う土浦くんの顔。
   決して日野ちゃん以外の人には見せない、優しい温かい、笑顔。
   その笑顔を消したくて、またピアノに向かって練習するけど、やっぱり上手く弾けなくて。

   見事なまでの、堂々巡り。
   それをこの人は、音だけで分かってしまった、ということか。


   「お見事ですね、先輩」

   「まあ、伊達に何年も仮面をかぶっちゃいないさ」

   「ふふ……確かに」


   彼の軽口に、笑った。
   けど、私は、本当に……笑えているのだろうか?



   「何があったかは聞かないでおくよ。おまえも話す気は無いだろうし、俺もそれを聞いて何かしてやろうとは思わないから」


   俺様柚木様らしいな、と思った直後。
   ポ〜ン……と、彼はすぐ目の前にある音を鳴らした。
   鳴らした音は、ピアノの鍵盤の、真ん中の「ド」から1オクターブ高い音。


   「これが、今のおまえ」


   鳴り響く「ド」の音に加えられたのは、隣の「レ」の音。

   見事なまでの、不協和音。


   「自分の気持ちを偽って、自ら不協和音になっているのが、今のおまえだ」

   「……」


   言葉が、出ない。


   そんな私の状態を知ってか知らずか、次に鳴らされた和音は、「ド」の音と1オクターブ上の「ド」の音。
   8度の完全協和音と呼ばれる組み合わせ。


   「完全な協和音を鳴らせとは言わない。だが、例え不完全であろうと、周りを不安にさせない協和音を持つことも、時には必要だ」


   そう言って鳴らすのは、「ド」の音と「ラ」の音。
   6度の不完全協和音と呼ばれる音。


   「少なくとも俺には……それが必要だったからな


   ぽつりとこぼれた独り言のようなつぶやきは、聞こえなかったことに、する。



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   しばらく、水を打ったような沈黙が続いた。
   けれどそれは、息苦しいような窮屈さはなく、不思議と落ち着く、心地良い静寂だった。

   その静寂をかき消すように、柚木先輩は椅子から立ち上がった。


   「……もう、戻れるか?」


   主語は、ない。
   何に対して、とは言わない。

   でも、ゆっくりとうなずく。
   立ち上がった彼を見上げ、瞳を見据える。


   「戻れるかどうかは分かりませんが……不完全でも、戻ります。それが、今の私です」


   答えになっていないのかもしれない。
   彼らの姿を見て、平常心を保てないかもしれない。
   それでも、それが今の「私」だから。
   嘘偽りのない、不完全だけど協和したい、私の姿だから。


   「……おまえらしい、な」


   そう言って微笑んだ顔は、今まで見たことのない、柔らかで穏やかな笑顔だった。


   でも、その笑顔はほんの一瞬で。
   気づくと彼は薄く笑みを浮かべ、いつもの仮面を取り付けていた。


   「それじゃあ、僕はこれで失礼するよ。練習中、お邪魔してごめんね」

   「いえ。いろいろと……ありがとうございました」


   椅子から立ち上がって、頭を下げる。
   ふっ、と笑う息遣いが聞こえて、彼が歩き出す音がする。
   そして、練習室の入口が閉まる音がするまで、私は頭を下げたまま、彼を見送った。

   彼が少し見せてくれた、本当の姿と、気持ちに対し。
   心からの、感謝と敬意を。



   再び、練習室に静けさが戻った。



   心機一転……とまではいかないけど、きっと、さっきより冷静にピアノに向かえるはず。
   新たな心構えとともにピアノと、楽譜に向かう。



   うん、私は、大丈夫。





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   でも、気づかなかった。
   先輩を練習室に招き入れ、話しているところを、
   彼に、見られていたことに。

   その彼が、
   私の知らないところで、


   大きな大きな、誤解をしていることに。